和風会総会 家元講演記録
「宗源宗匠の人と茶」
 
平成16年7月4日(日)
広島サンプラザ3F金銀星の間

 では、よろしくお願いを致します。宗源宗匠のことは、若い方はもう、亡くなって十年ですのでご存知ない方もあるかと思いますが、長くしてらっしゃる方は深く深く心の中に入っていらしゃる方であります。私自身も四才で父親を亡くしたもんですので、母がそうするしかなかったんだと思いますが、子供を三人連れて上田の今の家に、まぁ、言葉で言うと、昔で言うと、頼ってころがり込んだようなもんだったのかも知れませんけれども、何故か兄はお茶をしなかったんですが、私だけ5才くらいからお茶をしまして、しばらく上田に居て、そのあと小学校に入ってからは、鷹野橋にお店を構えて母が私達を支えてくれたんですが、そのお店の小さな八畳のところに炉を切って呉れまして私にずっとお茶を教えてくれました。

 分からないままにお茶をしていたんですけれども、どっかでもう好きになってたみたいで、中学に入ってからは、確か1年くらいから自転車で6年間ずっと高須の、今の安閑亭で稽古を週に一回しておりました。
今思うと受験の時もしていたんですから、やっぱり本当にやっぱり好きになったんだろうなぁというふうな実感がありますし、学生時代も慶応大学の茶道会に入って、銀行にいたときもお茶をしておりまして、結局お茶との縁はずっと五才から切れないような状況ですが、勿論、師は先代宗源宗匠でございます。

 上田は、戦後の上田は、世の中がどこの家もそうだったんでしょうけれども、大変にかわったもんですから随分上田の家も大変な状況の中でありましたけれども、本当にあの慈愛に満ちた雰囲気の中でお茶を教えてくれました。丁度十年祭で、今年は亡くなられて十年なもんですから秋に茶会があるのに、やはり宗匠と向き合うということは、この次あらたまった行事は五十年しかないもんですので、宗匠に向き合った行事に是非したいし、しなければいけないなぁと思ったもんですので、宗源宗匠の茶とはなんだったんだろうかということをこの間からずっと思っておりまして、今日折角なら皆さんにも共に宗匠の事を思いながら、宗源宗匠のお茶、あるいはその奥にあるものをいくらかでも感じ、自分なりに思うことでありますからどこまで迫られるか分かりませんけれども、話しをさせていただきたいというふうに思います。

 亡くなりまして、一年半くらい経った時に、私が今やはり同じように使っている書斎で宗匠の鉛筆で書きました、本当に質素な方でしたから、鉛筆で書かれました、えぇー、まぁいわゆるメモ書のような、いわゆる捨て文のようなものが出てまいりました。で、その中で今日、私、幾つか「あぁーいいなぁ」と思うような、私は今59才ですけれども、いいなぁというようなものを、或いは宗匠のエッセイの中で何か打たれるものを、今日お話しをしながら、或いは宗匠の好まれた道具や造られたものを含めて話しをさせていただきたいというふうに思います。

 一番最初に、今日印刷物、私の話よりもあの宗匠の言葉と実際に作品を見ていただくのが一番だと思ったもんですので、まず冒頭に宗匠が74才の時にこう言うことを機関紙「和風」に書いておられます。宗箇の心という題で、一寸読ましていただいて、一寸眼を通していただきたいと思いますけれども、私、一寸読んでみますので



「宗箇の心 三原の仏通寺は室町初期の愚中禅師によって開山された由緒ある寺院です。流儀としては初めての献茶式でしたが、本堂にあふれる程の大勢の参詣者があり、有難い事でした。今年84才になられる虎山老師の朗々としたお声が今も忘れられません。
老師の御部屋にお招きいただき、老師の御筆になる「本来無一物」と書かれた墨跡を頂戴しました。無心に書かれた枯れた一行です。私もよく書を書いてくれと頼まれます。「本来無一物」とか「無事是貴人」とか言った禅語が好きですが、書は書いた人の心をあらわすと言われています。修業の足りない私が書けば見る人に自分の心を見透かされる様でこわくて私にはまだ書く事が出来ません。
 宗箇の一行の「門無俗士駕」も無心にして豪放な書です。俗な人の駕はお迎えしないという事ですが、お迎えする方も俗士であってはいけないと言う悟りの境地にあって初めて書く事が出来る厳しい書だと思います。そんな語を自由に書く事が出来る虎山老師や宗箇が羨ましく思われます。
 宗箇が茶の湯の道を完成した当時は、清新溌剌として質実剛健の厳しい茶の湯であった事でしょう。その宗箇の心が当初は正しく伝承されていても、時を経て来ると時流に流され俗流にならい、当初の心が失われそのかたちを変えてくるのではないかと思います。利休も、自分が亡くなったら十年を経ずして茶の湯の道は荒れるだろうと心配していました。茶の湯の道と言うものは仏法と同じ様に不立文字であり教外別伝ですから、茶の本とか講義禄とは別に心から心へ伝えなければいけないものだと思います。その為には宗箇の心境にまで達しなければ、本当の宗箇の茶心を伝える事は不可能という事です。宗箇の心を受け継いで行く事が如何にむつかしい事であるか、思い知らされております。」


とございます。
あの、後ほど見ていただきますが、この頃から宗源宗匠の削られる茶杓、あるいは書かれるものが非常に手強くなって、それまではどちらかと言うと繊細な作品が多かったんですが、非常に手強いものがこの時代から出てきまして、やはり本当に真正面から宗箇と向き合っておられたんだろうというふうに、まぁ、僕なりに側にいて感じておりました。

 その次は先ほど言いました,亡くなって一年半位経ったときに書斎の小さな、A4版のノートにに書かれてあった捨て文の中からのものでございますけれども、八十を過ぎた頃に書かれたもののような感じが致しますけれども、読まさせていただきます。

 心  「私達が見ている現実と思っているのは、私達の解釈の入った世界であって真実の世界ではない。真実の世界を彼岸という。私達人間は真実の世界そのものを見る事は出来ない。何故なら私達の肉体と我執が密着しているのでどうしても我執が根本となって世界を見ているからである。
 自我がつよいと欲望のつよい心になってゆく そうすると総てが思うようにならない 苦とは思い通りにならない事である
八十を過ぎた今日 本当に分かったことは、何処までいっても分からないという事である。
過去を追はざれ
未来を願はざれ
今なすべきことを熱心になせ
 今此処で一瞬一瞬を充実し、これを完全に燃焼させつつ生きる事あるのみ 意識が純化されると、過去(記憶)や未来(期待)によろめくこともなく 一刻一刻こそ唯一現実の時である事を実感する」

 私この文章をはじめて読んだ時に、僕らは未来は希望なんですけども、期待によろめく事なくという言葉がすごいなぁというふうに、未来に逃げてはいけないということなんだと思いますけれども、凄くこの文章は感じ入りました。
 で、それからがお道具のことなんですけれども、今から宗源宗匠のやられました作品について見ていただきますが、その前にどういうお考えで作品を作ろうとされ、或いは茶道具を見ていらっしゃったのか、或いは特に晩年の十年は広島県茶の湯工芸展というのが宗匠の大きなテーマであり、私もお願いした訳でありますけれども、大きなテーマでありました。その、そこに対しての自分の思いというものを書いていらっしゃいます。これも一寸読んでみますのでお聞きいただきたいというふうに思います。


茶の湯の道具
一つの道具だけが、私が私がと自分を主張したら周囲との調和がとれなくなる
展い見合いでは自己主張しないと自分が認めてもらえないし会場には合わない
お互いに自己をなくした自然の作品がよろしい
無心の作品が茶室では大切
井戸茶碗の無心の姿は茶道具の極み
 茶の湯の道具を見るにつけ最近はゆがみや不自然さを強調した茶器、水指、花入 それは一種の創作であろうから しいて否定はしないが余りに考え過ぎた作品である
お茶は自然なものである。素直なものであるべきである。
造形的になりすぎるのは茶の世界ではない。
自然にゆがんだもの、虫くいの物などの素材を審美眼によって道具として生かしていくのが茶の世界である。
人に媚びたり作為が見えすいた作品が多い
上手下手を超えて自分のあるがままを出す 自分のありのままを出すということのなんとむつかしいことか、美は自分で意識した途端に美ではなくなる、自己をしっかり踏まえた上で意識を超える
 凄いことをおっしゃっているんですけれども、
広島の作品を用いるのに臆病にあってはならない
好い物は好い物として用いるのが家元の使命
無名の作家の内から名品を見つけて世にした織部、遠州


 これ、やはりあのぅ、地元だけの作品でという事に対しては、勿論地元の人達は好いという人達ももちろん沢山いるんですが、茶の世界から言うとなんで広島だけの作品にこだわるんですか、というの、これも片一方では真実のところもあるんですけれども、色々な葛藤の中で、その全部広島の茶道具ということはこだわりで、ある面では美を追求するというような点ではどっかで又裂き状態になるわけでありますけれども、その中でやはり広島の作品を用いる事に臆病であってはならないと自分にこう、言い聞かしていらしゃるんだろうと思います。

で、側についておりましてやはり東京に居ても、京都に居ても広島に居てもいつでも宗匠は変わらないのが、凄いなぁというのが広島に居て広島の方に接しられても、関西に居て他の方に接しられても、東京で接しられても、広島の上田宗源というのがごく自然で、あぁ凄いいいなぁというのはやはりこういう積み重ねをずぅっとやった上に、きっとなりたっていかれたんだというふうに思います。
では、作品を見ていただきます。

ちょっとお願いを致します。


「先代がお庭を見ていらっしゃる姿」
宗匠をご存知ない方もあるかとも思いますが、これはもうほんとに晩年の品の好いお顔ですけれども、姿です。

で、一寸次ぎをお願いいたします。 


「軸 門無俗士駕 上田宗箇筆」
 これはさっき宗源宗匠が、宗箇が羨ましいということを書いていらしゃいました、「門無俗士駕」(門に俗士の駕なし)という、ほんとに凄い字ですけれども、まぁ、俗人は和風堂の門にお迎えしないという、訳せばそういうことなんでしょうけれども、自分がちゃんとすればそういう人は来ないというふうな自戒の言葉だというふうに、自分にとってみても、流儀にとって見てもとっても大きな深い強い意味があるんだというふうに自分も理解をしております。

 次をやってみてください。
これからが広島県茶の湯工芸展の作品でございます。で、基本的に広島県内あるいは広島県にご縁の方に作品を依頼して全て宗匠のイメージの中で茶会を、茶道具を取り合わせてゆくという、一点一点はあれでもいくんですが、取り合わせというのは物凄く難しいものですから、随分苦労されたと思います。


「藍・草木染潮文敷物 杉谷富代」
 これは(藍・草木染潮文敷物)杉谷冨代さんとおっしゃる広島出身の、今広島在住のかたですがよくフランスに行ってらっしゃる方ですけれども、藍染めです。立村織物の木綿切れ地に藍染めをされまして、藍染めの藍も徳島の藍を使われて、宗箇が徳島に居たということで徳島の藍を使われて、そして家の枝垂れ桜の、桜の皮を何かを使われて宗箇がとても桜を大事にした、例の吉川広家から贈って頂いたその桜の皮と、草木を色々こう混ぜてそして染色されて、ご覧のように瀬戸内海の海の向こうに、あれは恐らく厳島の、その神の、お社のイメージなんだというふうに、御幣ようなイメージのものだと思いますけれども、波の向こうに神がいるようなそういう世界のものでございます、だろうというふうに思っております。

 次ぎをちょっとやってみて下さい。 


「鎧編花籃 門田篁玉」
 これは、宗源宗匠の花入は私はこれが一番私は好きですけれども、鎧編花入(よろいあみはないれ)と言いまして、福山の門田篁玉(もんでんこうぎょく)さん、日本有数の、もう八十幾つになられまして、本当に日本有数の竹細工師だと思いますけれども彼の中でも、門田さんも「私の代表作だ」とおっしゃっていますくらいに、これは本当に良い物が出来たように、備後地区って非常に伝統工芸の息づいているところがありましてですね、本当に「この作品は私も良いなぁ」と、二百年くらい前の確か私の記憶では福井の方の農家のいわゆる煤竹を使っておられます、これは。鐙(あぶみ)って言うのは武家の、侍の、武具のあれをデザインされたものでございますけれども。これは花も非常によく映ります、この花入は。

次を一寸やって下さい。


「竹隠棚 山根寛斎」
 これは玉椿(たまつばき)と言いまして、椿の中では一番良い椿といわれて、非常に香りの良い椿でして、今も箱を開けますとぷーんと良い香りがしてきますけれども、流儀の人はよくご存知の人が多いと思いますけれども竹隠棚(ちくいんだな)と申しまして、竹隠というのは宗箇が貰った号が竹隠、毎年五月の第三日曜日に京都の三玄院でお茶会をしますけれども宗箇が大徳寺の春屋宗園から戴いた道号は竹隠という道号、織部は金甫(きんぽ)遠州は宗甫(そうほ)、皆、春屋宗園から貰ったわけでありますけれども、その竹隠のイメージで先々代の宗翁が、宗翁は大変に絵がうまかったもんで、宗翁の下絵の棚なんです、これは。水指がこれに据わるわけですけれども、宗翁の時は溜塗(ためぬり)だったんですけれども、宗匠が是非木地でありたいとおっしゃられて、これも山根寛斎さん、やはり本当にお上手で、本当にシャープな、本当にお上手なんでしょうね、この方、未だ、去年かおととしだったかと思いますけれども広島県の無形文化財になられましたけれども、本当にこの方は広島が誇る指物師だと思います。非常にご性格もシンプルですから作品もそれが非常によく出ておりまして、非常に好い雰囲気のものに仕上っております。

次ぎをして見て下さい。


「扇面棚・桑縁風炉先屏風 山根寛斎」
 これも茶の湯工芸展の作品でして(扇面棚、山根寛斎)厳島神社に高倉天皇が奉納した扇がございます。その扇から宗匠がヒントを得られまして、真中にあるのは桐、この桐のデザインそのものは完全に宗源宗匠の下絵をこのまま彫られたんですけれども、これは「上田桐(うえだぎり)」と言いまして、秀吉から拝領した、豊臣姓をもらっているもんですからその時に拝領として「上田桐」という桐を、五三の桐を貰っておりますけれども、江戸時代は全く使ってなくて、幕末に長州の役になって始めて再びこれが旗指物(はたざしもの)にでてくるという、何百年間は全然、こう表に出ていなかったものを、また再び、こう幕末になって時代が動くときにまたこれが旗指物に使われて、毛利との戦いではこれが旗指物に使われるんですけれども、その、それをデザインされた、これは桑を拭漆(ふきうるし)で拭いている、扇型でして前が、基本的にお茶は仏教ですから奇数を使うもんですからね、道具を作る時に必ず奇数であるということがポイントなもんですから、これは12345というふうになります。ですから例えば遠鐘なんかでも、遠鐘の方立(ほうだて)と言って私共の代表的な茶室遠鐘なんかでも、襖をこうして開けて右側に方立がある、それも必ずやっぱり五つ、節目は五つなんですね、三、五、七という、やはり奇数でないとお茶はやはり具合が悪いと言う事で、ですからは花なんかもね、よく奇数っていいますよね、これは桑で出来ておりますし、これも非常に好い作品だと思います。これも山根さん、福山の山根さんの作品でございます。

次をお願いいたします。


「乾漆八角根来塗茶入 高中隆司」
 これは宗源宗匠が好んだ、これは元々我が家に根来(ねごろ)、蒟醤(きんま)でタイの方のキンマの江戸期のものを宗匠が好まれてそれを根来で作らされました。これは非常に映りがよくて、やっぱり根来というのは暑い時は涼しく、冬は暖かく見える面白い、本当に好い、漆ですよね、これは本当に、こう、一年中使えるような独特好い色ですけれども、乾漆で、乾漆っていうのは中に木が無くって、こう、紙を漆で固めていって、紙を固めていくのを乾漆っていうんですけれども、これは三原の高中隆司さんと言いまして、お父さんが高中惣六といい非常に名があった方ですが、そのご子息、もう七十過ぎられました、その方に依頼された作品ですがこれも非常に評判が良かったですね、非常に映ります。非常に茶席で取り合わせが、非常に具合が好い、好い物だというふうに。これも宗匠の代表的な好みの茶器だと思います。

次をお願いいたします。


「乾漆面取中次茶入 高中隆司」
 これも同じく三原の高中隆司さんに頼んで作ってもらいました面取の中次でございます。これは本当の最晩年、第三回の茶の湯伝統工芸展だったと思います。広島県茶の湯伝統工芸展だったと思いますけれども、これもそうです。

次をお願いいたします。


「碧釉正平灯籠香合 木村芳郎」
 これは最近活躍されてます木村芳郎さん、東広島の。木村芳郎さんが厳島の燈篭がありますね、あそこは、釣灯篭、その釣灯篭に火が入ったイメージで香合を作られたんですね。これは第二回広島県茶の湯工芸展だったと思いますけれども、あの、木村さんの作品というのはご本人がいらっしゃると機嫌を悪くされるかもしれませんけれども、色が強過ぎるところがありますもんで、マンションだとか、或いは一点でこう、すっと座ると収まるんですが、他の道具と取り合わせますと強過ぎるもんですからなかなか難しいんですねぇ。但し凄く「あぁ木村さんの色、焼き物」と直ぐわかるくらいのオリジナリティがあるんですけれども、これはそれをおさえてそれをフッと薄くしていらっしゃるもんですから比較的道具の取り合わせが、木村さんの最近としてはやりやすい方だというふうにおもいます。勿論、ご本人も意識をされたんだとおもいますけれども。やはりこうして見ると厳島というのは、やっぱりこの地区では大きなテーマに色々な造形がどうしてもなるんでしょうね。

次をお願いいたします。


「へぎ八寸盆 山根寛斎」
 これは杉へぎ八寸といいまして、勿論お詳しい方はいま、分かりきったことなんですけれども、茶会で、茶事で懐石の途中からいわゆる盃事(さかずきごと)になります、料理が済んだあと盃事になった時の印は、盃に、いわゆる「取肴(とりざかな)」を盛って持ち込む。いまはそれが八寸に、必ず八寸でないといけなくはなかったんですが、今では八寸でないといけないような感じになっていますが、何かの鉢に盛ってそえる、今は大体八寸が多いわけですが、なんで八寸かとといいますと、この寸法が24センチ、3・8・24センチ四方なんで八寸というんですが、これを先代が好まれて、へぎで、へぎ杉目なんですが、ここを普通、千家の好みの千家の八寸というのはここが丸くなっているんです、こう言うふうに。それをやはり宗箇のシンプルな、直線志向の宗箇のイメージが自分の中におありになるもんですから、これを真っ直ぐこう、随分違った造形になります。これも福山の山根寛斎さんの作品です。これもとっても好いシンプルなものができてますですね。これに向うが海の幸、手前に山の幸が乗って青竹の取り箸が出てきて、盃事が、盃を一緒に持って出ると言うことですからね。

次をお願い致します。


「桑拭漆莨入(くわふきうるしたばこいれ)小松寿山」
 これは大野、今度廿日市と合併しますけども大野の小松寿山、やはり日本伝統工芸展の正会員の小松寿山さんの作品で、煙草入れ、薄茶になると、宗箇の時代には薄茶になっても煙草盆は出さなくて鎖の間に行って始めて出すんですけれども、江戸の後期には薄茶になったら煙草盆というふうなことになっておりまして、薄茶の煙草盆の中に煙草を入れる入れ物がいるということで、これは先代が全部デザインされて作られた、やはりこれも拭漆(ふきうるし)でございますけれども、これも桑なのかな、桑の拭漆なんでしょうか、上はこう、独特なこう、つまみを作っておられますけれども、これも宗源宗匠好みの煙草入れでございます。やはりこの小松さんも大野って言うのは実際は宮島の宮島彫りの伝統を継いでいらっしゃるわけですよね。それで煙草入れを作られているということであります。

次ぎをやって下さい。


「銅蟲(どうちゅう)波紋建水 岡田清光」
 これは皆さんご存知の銅蟲、銅蟲は広島に浅野長晟が広島に入ってきて、あの当時の大々名の移動って、人口の大移動みたいに何万人も人がついて来るわけでありますから、家臣だけでも何千人もいるわけでありますから、その時に和歌山から銅蟲師、いわゆる鋳物師、鋳物師を連れて来る、勿論宗箇なんかも何人も指物師や鋳物師や数寄屋大工なんかも連れて来るのが資料に残っていますけれども、その、これは浅野さんと一緒に移動してきた人で、確か清氏(きようじ)っていう名前だったと思いますけれども、余り熱心にこう、銅を叩くんで、浅野長晟、初代のお殿様が「お前、そんなに一生懸命銅を叩くんだから銅の蟲だから銅蟲と名乗れと言われて、以後今日まで銅蟲として広島の特産、工芸特産になておりますけれども、その銅蟲が大正期に伊藤久芳堂さん、今社長が県の教育委員をしていらしゃいますが、伊藤久芳堂さんのほうが再興、明治になって一部無くなるんで再興されておりますがそこの伊藤さんから独立された岡田清光さんという方の作品で、これも宗匠のデザインなんですが広島の七つの海をデザインされているんですねぇ。広島の七つの海をこうしてデザインされた、あっ、七つの川、ごめんなさい、七つの川をデザインしていらっしゃる、そしてこうデザインしていかれている作品ですよね。これは建水ですから、汚れたものをこう、お茶碗のお湯をこう入れるんでございます。

次、一寸お願いします。


「砂張汐瀬紋建水・南鐐鳥居手付水次 若山裕昭」
 これは、広島市立大学に広島市が広島で始めて本格的な芸術学部を作られました。で、基本的に芸大の流れの方が多いようでありますが、その中に彫金で若山さんといって、若手のホープの方、もう教授になられましたけれども、若山さんの作品です。宗匠がデザインされて若山さんが作られた作品ですけれども、今、市立大学の工芸の方の彫金の方の教授ですけれども、50に過ぎられたと思いますが、その方の作品で建水は砂張(さはり)です。やはり波紋、波をデザインやはり瀬戸内海のイメージだと思いますが建水は砂張、水次(みずつぎ)は安芸の宮島ですね、鳥居、取っ手、つまみはもみじ、これは南鐐(なんりょう)の水次です。南鐐で出来た水次でございます。これらは今は、福山、あのぅ、第三回の茶の湯工芸展の作品は福山美術館が全部欲しいとおしゃいまして、全部第三回の作品30点くらいは全て福山美術館に、今入っております。20何点だったと思いますが全部取られました。あのぅ、是非欲しいとおっしゃって、ああいう点では福山、備後の方がこう言うものに対する意識が強いような、感じが、話しをしてて致しますですね。広島からはあんまりそういう声が、残念ながら余り上がってきませんねぇ。備後の方がそう言う声がどちらかと言うと強く出ているような気がします。

次をお願い致します。


「茶入のデッサン・野路菊」
 実はあのぅ、宗匠が一番苦労されるのはですねぇ、普段、いつもいつも茶道具を作っていらしゃる方だったら茶道具ですから、寸法、取り合わせ、厚さっていうのが大体どの辺が共通項っていうのが普通分かるんですけれども、実は先ほどの広島の作家を使わなければならないっていうのはよっぽど細かく指導しないと野暮ったくなるんです。というのは普通茶道具をいつも作っていらしゃる訳ではないもんですから、どうしても肉厚になってしまったり、こう取り合わせってもんが出来ないもんですから、例えば利休がですねぇ、釜なんかをつくらせてるのは本当に簡単な墨絵で、それだけを送ってできるんですねぇ。ただ宗匠の場合はそこができなくてですねぇ、寸法、厚さ全部書かなければいけないんですねぇ。そこが辛かったみたいですねぇ。やはり、しかし、そこは積み上げの中ですからやはりその中で積み上げて良くなって行くということでご本人もそれを覚悟して本当に細かく、あのぅ、ただおしゃっていたのはもう2・3回、1回作ってやめることもあるんですが、三回くらいはやり替えたかったみたいですねぇ。やっぱり、どうしても思いに達しないところがあるんです。


「高盛絵野路菊文棗 金城一国斎」
 で、実はこの作品はこの間、金城一国斎展が、福屋で、七十五周年展で、沢山入りました。大体広島では工芸は八千人入ったら、六日間しかありませんから、広島で、デパートでする時は工芸で八千入れば大成功なんです。六千でOKという感じがありまして、で、それが一万二千六百という大変な方々が一国斎展をご覧になられました。でまぁ、中国新聞と福屋さんと池田さんのご依頼で私がそんなに指導できる訳ではないに監修を致しましたけれども、その中に出てた、展示した作品で、ご記憶のある方もあるかと思いますが、これは五代一国斎に白菊の棗を作らされたんですねぇ。白い、とってもすてきな白い、私、大好きな作品ですけれども、これ全部宗匠の肉筆の直筆の鉛筆書の下絵なんです。で、これをですねぇ、実は、やっぱり、どういう事かと言いますと、一国斎の絵というのは茶道具は比較的少なくて、全部に書くもんですから、お茶としては賑やかになるんですねぇ。圧倒するようなところがありまして、やっぱり押さえたいと、絵を押さえたいと、やっぱり他とバランスがあるもんですから押さえたいということですから、一国斎でしたら四君子の絵を全部書いてしまったりするんですねぇ、で、ここだけというふうにして、絵もスケッチのイメージも書かれて出来た作品が、一寸次ぎを見て下さい。これなんですねぇ。あのぅ、本当に品の好い作品で、五代の中では私はこの作品が一番茶味があるというふうに思います。あのぅ、七十幾つでしたけどあの時に本当に、下絵の、宗匠の下絵のイメージの、宗匠の雰囲気が出て、清々しい作品に仕上がっております。本当にこの棗は品が宜しいと思いますですねぇ。
あのぅ、よく高盛というのは厚苦しくって絵が多くって、なかなか茶になりにくいと言うことをするんですが、やはり研鑚次第、或いは私共のキャッチボール次第では、これを見ると充分いくなぁというように、だから今の池田君も今から努力をして行けば充分そういうものは作って呉れるんじゃぁないだろうかというふうに思っております。

次ぎを一寸やってみて下さい。


「菊の下絵」
 これは菊を、鉛筆で、これも鉛筆書きなんです。今も原本を残して、大事にしておりますけれども、菊を、これ蓋置の姿なんですね。ここにある真中にある、書くものを菊のデザインをズ−っと、これは八弁ですか、八弁の菊を書かれているんですね。手書きで、ご本人が。ここにちゃーんと色まで銀色と書いていらしゃいますけれども。で、これを先ほどの銅蟲の岡田清光さんが作られた作品です。一寸ご覧下さい。


「菊文銅蟲蓋置 岡田清光」
 きれいですよねぇ、やはり。銅蟲もこういう行き方をすると、あのぅ、だから、やはり、銅蟲も、好いそういうデザイナーに合えたらもっともっと、きっと、あのぅ、言葉は悪いですが殖産として売れてね、もっともっと支持されるんだと思うんですが、どうもワンパターンなもんですからそこに弱さがあるんだと思いますけれども、この間も、京都の三玄院のお茶会に行かれた方はご記憶だとおもいますが、江戸時代の終わりの銅蟲にお干菓子で私共が割り氷と大阪の名の通ったお干菓子屋さんにお願して割り氷と青楓を銅蟲の菓子器に出したらすばらしく、ですねぇ、京都、大阪、奈良、或いは東京から来られたお客さん達が歓声を上げられるんですねぇ、銅蟲の美しさに。そのお菓子とのバランスが良くてですねぇ、そう言うのを見ながら、充分いくんだがなぁ、通用するがなぁ、銅蟲がデザインさえ良ければと思って、その時も改めて思いましたけれども、こういうのを見ると、あぁー、やっぱり行くなぁというような感じが、これは糸巻きを想像され、糸巻き、丁度今のね、七夕の糸巻きのようなのを思って作られてるのかなと思いますけれども、織姫のイメージで作っていらしゃるのかと思いますけれども、これも好い作品だと思います。

はい、次をやって下さい。


「棚」
 あっ、それから次はですねぇ、次は手造り、今は全部造らされたんですが、とても手造りがお好きでした。それはどうもちっちゃい頃からだったみたいで、大変物を作られるのがお好きでして、今からのは手造りの作品です。これは時間の関係もあると思って、そう沢山は用意はしてきておりませんけれども、これは皆さんおなじみの身近な箙棚(えびらだな)の本歌であります。で、これを、実は手造りしていらしゃるんです。これ、あの、皆さん、誰もおっしゃいますけれども茶の家元でこういうものを手造りしていらしゃる人は昭和に入っては、いないと思いますよ。どの流儀の家元も、今十幾つ今あるわけですが、ほーんとによく、しかも非常に良く、武家らしい、箙(えびら)ですから江戸時代の私共に伝わっている弓の矢ですから非常に漆がよく効いておりますのと、かりんの木なんですね、下が矢筈(やはず)になって上はこう矢筈のを受けてこう蛤羽(はまぐりは)にしていらしゃるんですけれども、これも非常によろしい作品ですね、シンプルで。これは宗源宗匠のやはり、これも代表的な棚だと思いますけれども。非常に良いデザインでシンプルで良いものであります。手造りというのはただびっくりします、これらは。

次を一寸やってみて下さい。


「水差」
 これは宮島焼の手造りの水指(みずさし)なんです。で、あの、非常に良い雰囲気で仕上がっております。宮島焼きとは、一寸薬的に分かりませんけれども、瀬戸薬のような感じのね、イメージが出ておりますけれども。手造りの水指(みずさし)です。

次をやってみて下さい。


「茶杓」
 これは、先ほどいいました七十代後半の作品です。凄い強いでしょう。六十代から七十代は細かったんですけれども、先ほどいいました宗箇の茶を受け継ぐのが如何に難しいか今思い知らされているという頃から、凄くこんなに茶杓が太くなるんですよね。手強(てずよ)、手強になっていくんですよね。見てください、この蟻腰(ありごし)の強いところ、折撓(おりだめ)の深さ、これ実竹(じっちく)ですね。で、実は、一寸これ比較して見てて下さい。今から宗箇の茶杓を出しますから。不二(ふじ)という銘が付いておりますけれども、普通こういう風に、あのぅ、まぁ、逆樋(さかひ)、順樋(じゅんひ)といいますが順樋のこういうものはですね、蟻腰という、蟻の足に腰みたいなんで蟻腰が高いとこういうんですが、宗箇は、遠州、宗箇は織部のお茶の流れを継ぐもんですから、ま、利休もそういうところがあるんですけれども、これが、蟻腰が特徴なんですね。僕なんかも意識してここを作りますけれども、それともう一つ、折撓の強さ、櫂先(かいさき)が微妙に右側にずれているところ、両方なんですけれども、本来ですねぇ、直樋(すぐひ)には蟻腰はしないんです、折れやすいですから。ですから宗箇の作品には一本もないんです、そういうものは。しかし、宗源宗匠は意識してこの順樋の先に蟻腰を入れられるんですよ。これは、明確にご自分の造形の意識だと思います。ただ、怖いんです。どうしても折れやすいところがありますから、ここが、非常にですから蟻腰が強くなってますですよね。

一寸次、次は宗箇ですけれども、ちょっとやってみて下さい。


「上田宗箇作 茶杓」
 宗箇は本当に今見ても、この写真からでも迫力が伝わって来ますものね。凄さが。この凄さが伝わって来るのが凄いんですよね。凄い蟻腰、僕が言っているのは代表的な、僕は一番、宗箇の特徴が出ているのはこれだと思うもんですから、よくこれで紹介するんですが、凄い蟻腰でありますがこれは逆樋(さかひ)ですからああいうふうに芽は、節は出ていないんです。これだけの蟻腰で、順樋にしたら折れると思いますよ、茶杓を使ったら。この折り撓め(おりだめ)の凄さ、宗箇は織部に比べて、折り撓めが強いといいますけど、本当に強い折り撓めであります。今でも気迫を感じるような、共筒(ともづつ)、共筒っていうのは筒も宗箇が作っているという、無銘ですが、この時代はむしろ無銘のものが多い訳ですけれども、やはり筒も凄い迫力がありますですよね。宗箇は、実は、皆さんにちょっとこうあのぅ、面白い事を申しますと、宗箇は基本的にね、普通この上は削らないんです、茶杓は。ここを宗箇は基本的にはもう、こう、九割方ここを削って落とすんです。宗箇は基本的にここを落とすんです。ここの皮の上は削りません。削らないんですが茶杓の先をですね、必ず落とすんです、宗箇という人は。で、ここは皮ですから、奇麗ですからみせるんですが、見せる所をちょっとおとすんです、切るんです、ナイフで。それが宗箇の特徴ですね。ですから宗箇作って言われたら、そこを一寸見られてたらよくわかりますが、そういう事をしております。で、先代宗匠はしておられません。先代宗匠の特徴は、ちょっとまた後ろへ戻していただけますか、先代宗匠は両横を落とされるんです。勿論、裏側はぱっと切られますよ。竹の、一刀のもとにぱっと切り落とされるんですが、両横を基本的に落とされるんですね、先代の作品というのは。だから、見られたら宗源宗匠というのが分かるようなところが、どこか自分の印を付けていらしゃいますですよね。えー、僕は未だうろうろしています、色々な事をしていますけれどもですね。あのぅ、いずれオリジナリティをつくるようになると思いますけれども。

次をちょっとやってみて下さい。その次をやってみて下さい。


「茶杓十二ヶ月」
 これなんかも、やっぱり凄いことだなぁと思いますのは、ですねぇ、一月から十二月まで季節季節の樹木を採られて、例えば椿、さるすべり、たとえば本当にそう言うふうに、先ほどの樫だとか桜だとかあるいは木斛(もっこく)だとか、梅だとかあるいはその、柏の木だとかですね春夏秋冬十二ヶ月の特徴のある木を全部自分で選ばれて削っていらしゃるんです。、これ。しかも折撓だけは全部強いんですね。すごく強い折撓であります。先は薄ぅくして、ちょっと右側にずらしていらしゃるんです。十二本揃っている、こういうことは、私は色々な茶匠がいらしゃるけれども長い歴史に中でもこれだけ十二本これだけ違ったものがこれだけ残っているということは、後世は凄く言われるんじゃないかと思います、この作品は。先ず無いんじゃぁないでしょうか、これだけのことはねぇ。

次をちょっとやってみて下さい。


「茶入」
 これは手作り茶入なんですねぇ。茶入はご存知のようにお茶道具で一番昔から精神的なものを求めて信義の証(あかし)みたいにして、特に武将の人達は随分大事にしました。で、宗箇が、茶人が作った最古の茶入れは上田宗箇が広島に入って作った例の、肩の張った面の取られた茶入だと、今は皆さん、そういうご専門の方はおっしゃいますけど、広島に入って作った宗箇の肩衝茶入(かたつきちゃいれ)が茶人が作った最古の茶入と言われておりますけれども、やはり、宗源宗匠はその分は随分意識があったんだと思います。茶入を作る家元って今はないですからね。これも恐らく私、明治以降の御茶人家元で茶入を作る人って恐らく宗源宗匠だけじゃないかと思いますよ。これも後世になったらきっと大事にされると思いますけれども、赤でされて、仕覆(しふく)まで赤でされていらしゃって、作っていらしゃいます。

次、お願い致します。


「上田家庭焼 赤楽茶碗」
 これはやはり赤樂(あからく)の、上田家庭焼の意識がずーっとおありになったんだと思いますけれども、赤樂の建水です。で、ご覧になってお分かりになるように、赤が多いんですよね。先ほどから棗、茶碗、色々なもの、赤が随分ポイントになっていらしゃるんですねぇ。それで、宗匠はやっぱり赤がお好きだったんだろうなぁと今回こうして改めて見ても、赤っていうのは明確に意識していらしゃって、なんでかなぁと思いますと、「さても」なんかもそうでしょう、宗箇の陣羽織、さても、みんな赤がメイン、基点ですよね。織部は緑ですけれども、あるいは利休は黒ですけれども、やはり宗箇の赤がやっぱりどっかにずーっと、インプットされていたんですかねぇ。先ほどなんかから見ていて、やっぱり赤が非常に基調になっていますですよねぇ。デザインの色としまして。

次を、お願い致します。


「花」
 今度は、花でありますけれども、宗匠の花は本当にシンプルでした。清々しかった、皆さんも大好きだったと思いますが、花についてちょっと書いていらしゃるところがありますので、一寸読んでみて下さい。これも随分に好いことを書いていらしゃる、これも八十を過ぎてからの文章なんですが、先ほどの捨て文の中にあるんですけれども、「茶花、茶花とは単なる室内装飾ではではなく、主人と客の心を通わせる媒体である。花が語りかけてくる言葉に耳を澄ませ、客の側から花に語りかける、花は心で入れるもの。」宗匠はやっぱり花の背後にやはりこう自分を見ていらしゃるんですねぇ。結局ねぇ、ずーっと、で、背後に自分を見て、恐らくこれだけの清清しい花が入るっていうことは、自分を見てるっていうんだけど、恐らく禅でいうあの「我見るを他人の如し」って言うじゃぁないですか。もう一人の自分が自分を見ているような、そういう意識なんじゃぁ、この言葉もおそらくそういう意識だと思います。花は心で入れるものっていうのは自分の我執を越えた自分を花の向うにみているような、そういうふうな入れ方なんではないかと、なかなか難しい、花って分かりますからね、その人の風、精神状態っていうのが。どうだ見たか、って花は全部そういう花になりますし、変にチマチマしますとそれも萎縮した花になりますしね、そういう点は全く衒い(てらい)のないような清清しい花で、私は大好きでけれども、宗匠の花は。ちょっと、今から何点か見てもらいます。自分の所に伝わっている道具の中で、自分の好きな花入れを選ばれて入れていらしゃいますので、季節毎に先に紹介をしますが、これは伝来の胡銅(こどう)の花入れに曙椿と赤芽柳を入れていらしゃいます。赤芽、椿、これは五弁、花は、椿は、やっぱり五弁、椿はとくに花で見せる、葉でも見せる、椿は葉がきれいですから一、二、五弁、やはり五枚入って、やはり五弁でないと、三弁では寂しいと思いますけれども。遠鐘の床に据えられられてありますよね、この花は。

次をご覧下さい。


「花」
 これは菜の花に柳が入っています、菜の花に猫柳のようですねぇ。下は赤松で、江戸時代の文化・文政年間に和風堂の赤松が雪で折れたんですね。今の県庁の所にあるぶんが。で、それを十代の安世(やすよ)が好んで花入に造らしてるんです。茶寮の松が雪で折れたんで、それで好んで造らせたと書いてありますから、丁度今の県庁の所にあった和風堂ですが、それに花にされてそれに花が入っているという、菜の花ってとってもいいですもんね。季節的にも涼やかで、とっても温かみがあって、本当に若緑が素敵ですから。

次をやって下さい。


「花」
 今度は、花でありますけれども、宗匠の花は本当にシンプルでした。清々しかった、皆さんも大好きだったと思いますが、花についてちょっと書いていらしゃるところがありますので、一寸読んでみて下さい。これも随分に好いことを書いていらしゃる、これも八十を過ぎてからの文章なんですが、先ほどの捨て文の中にあるんですけれども、「茶花、茶花とは単なる室内装飾ではではなく、主人と客の心を通わせる媒体である。花が語りかけてくる言葉に耳を澄ませ、客の側から花に語りかける、花は心で入れるもの。」宗匠はやっぱり花の背後にやはりこう自分を見ていらしゃるんですねぇ。結局ねぇ、ずーっと、で、背後に自分を見て、恐らくこれだけの清清しい花が入るっていうことは、自分を見てるっていうんだけど、恐らく禅でいうあの「我見るを他人の如し」って言うじゃぁないですか。もう一人の自分が自分を見ているような、そういう意識なんじゃぁ、この言葉もおそらくそういう意識だと思います。花は心で入れるものっていうのは自分の我執を越えた自分を花の向うにみているような、そういうふうな入れ方なんではないかと、なかなか難しい、花って分かりますからね、その人の風、精神状態っていうのが。どうだ見たか、って花は全部そういう花になりますし、変にチマチマしますとそれも萎縮した花になりますしね、そういう点は全く衒い(てらい)のないような清清しい花で、私は大好きでけれども、宗匠の花は。ちょっと、今から何点か見てもらいます。自分の所に伝わっている道具の中で、自分の好きな花入れを選ばれて入れていらしゃいますので、季節毎に先に紹介をしますが、これは伝来の胡銅(こどう)の花入れに曙椿と赤芽柳を入れていらしゃいます。赤芽、椿、これは五弁、花は、椿は、やっぱり五弁、椿はとくに花で見せる、葉でも見せる、椿は葉がきれいですから一、二、五弁、やはり五枚入って、やはり五弁でないと、三弁では寂しいと思いますけれども。遠鐘の床に据えられられてありますよね、この花は。

これは宗箇の作品にですね、白玉と白桃、白い玉と白い桃、両方白、これは宗箇が三十才、三十代、三十五・六の時に伏見屋敷、宗箇の伏見屋敷、未だ秀吉の側近大名であった頃の話ですけれども、伏見屋敷に松屋久好を招いた時の茶会で奈良の豪商松屋久好が当時きっての豪商だったと言われていますけれども、午前中織部の屋敷に行った後、午後に宗箇の伏見屋敷に行った時に入れた花がこの白い桃と白玉だったんで、宗匠がそれを自分なりにチャレンジされたんだというふうに思います。宗箇の二重切花入の下に入れております。

次をお願い致します。


「花」
 これもとても清々しく好く入っています。これが、ここが効いていますよねぇ。凄く効いていますよね。あれで動きが出ていますけれども、宗箇の代表的な竹花入の一つである、横に鉈目(なため)がスッと、ここにスッと入っているこの凄く人気の高いこれ、花入ですけれども、それに娑羅の花(しゃらのはな)を、娑羅双樹の花を入れておられます。丁度、今は一寸過ぎましたけれども、娑羅は本当に儚い一日花ですからね、とっても爽やかな白い花ですけれども、これがとっても効いていますよね、あれが無かったらごく普通の花なんですが、あれで随分動きが出ていますよね。下に花台が、やっぱり竹花入は木地ってよくいう、本格は木地っていうけれども、こだわったらあれなんで私は別に黒でも好いですよっていいますが、木地の花入れを使う時は水をこれだけこぼさないと、木地をそのまま木地のままだったらかえって白っちゃて美しくみえませんね。木地の時は必ず水に濡らさないとこういう風にはきれいに映りませんですね。

次、お願い致します。


「花」
 これも、これは二代の備前守重政、長男が江戸幕府に家光の命で五千石の旗本に召されるもんですから、この家が代々大目付を江戸幕府でするんですけれども、次男が後を取ります。次男の重政の作品、二重切、まぁ、お父さんの一生懸命見ながら、指導しながら作ったんでしょうけれども、その作品に秋海棠(しゅうかいどう)が丁度いまからね、そろそろそういう時期ですが、秋海棠の一輪っていうのは好いですよね。秋海棠が入っております。

次、お願い致します。


「花」
 これは四代の、丁度元禄時代の、私共が、あのぅ、浅野の御当主がおっしゃいますが、私共が浅野、上田家としては客分、お客さんから家臣にこう組み込まれてくる、最後の本当に未だ江戸初期の客分としてのような状態の中での、時代だった、本当に華やかな時代だったんでしょうが、丁度元禄期の赤穂義士で大変な時期ですよね。広島藩が、芸州藩がへますると潰されそうな時で時期ですけれども、家(うち)からも赤穂に何回も派遣して、家臣を派遣してあのぅ、内蔵之助に立たいようにして、そういう手紙が残っていますけれども、その時の当主の作品です、これは。四代の重羽(しげのぶ)、この人もとっても才能があった方のように思いますけれども、その作品に満作(まんさく)と竜胆(りんどう)が入って、これは山竜胆、竜胆も今の店で売っている竜胆は、もう洋花で使えませんけれども、山竜胆は本当にね、爽やかで好いですよね、本当に可憐な感じがして、流儀では竜胆が口切の花と言われておりまして、確かに、本当に分かりますよね、その爽やかな良さが。

次、やって見て下さい。


「花」
 これもやはり四代重羽の作品ですけれども、これは初嵐(はつあらし)に錦木(にしきぎ)、和風堂に錦木がありますけれどもこれは宗箇が好んで使った木なもんですので、それも意識をしていらしゃる重羽の一重切花入れに初嵐に錦木を使っておられますけれども、やはりご覧になって気が付かれるように、自然なんですよね、「見たか!」っていうのが無いんですよね。清清しさみたいなのがこうあって、やはり宗匠の生き様がそうだったんだろうなというふうに思います。やっぱり言葉では品性みたいなものを花に感じますよね。花そのものに、入れていらしゃる花に感じますですよね。

次をお願い致します。


「華鴒美術館1」
 今日も、あのぅ、岡山の井原から会長さんがお越しいただいていますけれども、これは本当に亡くなる一週間位まえに完成した華鴒美術館の庭なんですけれども、宗匠は宗箇が大変に書院の広い庭を作るのが得意だったんですけれども、やはり宗源宗匠も最後にその広い庭に兆戦をされまして、ま、これもさっきから度々申しますが今の、昭和、明治以降になってからと言って好いかも知れませんが、茶の湯の家元で書院のこういう広い庭園まで監修指導されたような方はいらしゃらないと思いますよ。、恐らく。日本の中で。で、これも最晩年の作品ですが、大変石を多用されて、宗箇が石を多用した庭が多かったもんですから、本当に品の好いこれも庭であります。今回私は和風で一寸書いておりますけれども、本当に品が好いなぁこの庭はと思って、毎年九月に岡山の井原遠鐘クラブの主催でここで観月茶会が、夜、ありまして素敵なんですけれどもね。

次をちょっとお願い致します。


「華鴒美術館2」
 それもこの庭であります。本当に品の好い庭です、これは。

次をお願いします。


「軸 一以貫」
 これは宗匠が大好きだった言葉なんです。「一以貫(いちいかん)」といって、一番好きでしたね、宗匠は。一つのものを以って貫いてゆくという、そして、そう言うことをすれば本物になれて、茶室以外に出てもその人は、本当の茶人は、よく皆さん昔からいらしゃる方は覚えていらしゃるでしょうが、「本当の茶人は茶室から出てからも茶人でなければだめよ」とよくおしゃっていましたよね。それはこういう気持ちが無いかぎりはなれないといつもおっしゃっていまして「一を以って貫く」、あのぅ、これは孔子の言葉の中にあるみたいですけれども、あのぅ、そういう訓練を積み重ねて行くと茶室の外に出ても真の茶人になれるんだから、本当に一生懸命しないとそうはならないよというような事をおしゃっておられました。

電気はそのままで結構ですから、えー、もぅ、後十五分位いなんでちょっと次の話をさしていただきますと、和風堂が未だ出来る前、本当に、こう、上田のお茶が、或いは上田の位置がどういうふうになって行くのか大変な時期だったと思いますけれども、68才の、未だ先が見えない時だったんだけれど、しっかり見据えていらしゃったんですねぇ、これを見ますと。これ、54年7月の和風の、68才の時にですねぇ、こういうことを書いていらしゃるんですねぇ、「茶の湯と上田流、宗箇の茶、門に俗士の駕無、茶碗・さても、折撓の茶杓、鉈目の強い竹花入等の作品には宗箇の気質がそのまま現れていて豪快にして、質実剛健、おもねりてらう事なく、ただ我が道を行くの気概がひしひしと感じられます。この心を流儀の心として上田宗箇流独自の流儀にしたいものです。宗箇以来上田流は日本の茶道文化をそのまま引き継ぎ、育ててきた、他に見られない程の立派な茶道であることを認識して今後の発展を期したいと思います。」とやはり宗箇の茶というのは普遍的なものだということをしっかり持っていらしゃったんですねぇ。みんなどうなるかと思ったとき、もう据えていらしゃったのがこうして読んで見ると、改めてやっぱり凄いなぁという、当時どうなるかという時期だったもんですからねぇ、それでもこれだけしっかり認識していらしゃったことは凄いなぁというふうに、思います。それと、もう1点ですねぇ、ちょっとこれ、あのぅ、読ませていただくんですけれども、中村昌生(なかむらしょうせい)さん、今日本の数寄屋建築の第一人者ですけれども、中村昌生さんが自分が主宰する数寄屋文化と言う月刊誌にですねぇ、書いていらしゃる、亡くなられて直ぐ書かれているんですねぇ。これは私も知らなかったんですけれども、やはり、中村昌生先生も宗匠の奥にあるものをちゃーんと見ていらしゃるんだなぁと思って、思います。で、それを、ちょっと、一部を読んで見ます。これは和風堂を作る、再現することが決まった後、京都に行った時の話、以後なんですけれども、私が中村先生にご相談に行ったのが未だ33・4だったです、確か。その頃の話ですけれども、「若宗匠がお帰りになって宗匠とご相談され、外露地構えを含めて復元することをご決定になり、私に伝えられたのである。その後、まもなく宗匠はお社中の代表の方々を伴って京都へお越しになった。都ホテルでお目にかかり遠鐘建設のご趣旨を改めて承った。そして、新しい和食堂で食事をご相伴した。宗匠はとてもお酒のお好きなご様子であった。まことに穏やかで柔和なご表情は杯を重ねられても少しもお変わりにならない。私はいつしか初対面であることを忘れて宗匠の温和な雰囲気に浸り込んでしまった。

それから度々お目にかかり、ご相談申し上げたり、ご教示をいただいたり、又食事のご相伴をさせていただくなどしばしば宗匠の(?けいがい)に接する機会に恵まれた。いつもいつも宗匠の温顔は崩れなかった。もの静かなな談笑は少しも退屈をさせることなく、尽きることがなかった。そうした宗匠の穏やかな表情の中に、やはり武門の流れを汲まれた厳しさ、不動心といったものを、ふと感じることがあった。むしろ、そういう厳しさを確固と内に秘められ、蔵されそれを温和な体で包んでおられるように思われた。」実は、私もこれは感じておりまして、極めて厳しいところがございました。あのぅ、いざというと、すぅっとこれ以上入れないってところが非常にありました。皆さんも古い方は感じられたと思いますけれども、あの、なんでそうだったのかまでは私には分かりませんけれども、ただ、私なりに推測しますと、その、宗源宗匠っていうのはやはり明治45年に生まれられて、本当に未だ旧家臣の方達が家の中に沢山いらしゃって、今の屋敷の前ですから何千坪というような大きな屋敷に住んでらしゃって、二十才の時に昭和天皇に拝謁されて官位を貰われる時は本当に、江戸時代の延長の中で生きていらしゃる部分がありまして、男爵家の息子ということで育てられたんでしょうから、36の時に確か華族制度が廃止になった訳ですよねぇ。それで、やはり、そういう部分というのがあってその後の戦後というのは上田の家、まぁ、皆さんのどこの家もそうだったと思いますが、激変の中で、被爆もあり、家もそういうふうに無くなり、そういう状況も無くなり、華族制度、例えば茶事預りも無くなりというふうな中で非常に有為転変の中でですねぇ、ある面ではあの不動心っていうのは、その、何があっても変らないような、自分の内面は変えないような努力だったんだと思うんですね。だからずーっと見ていまして宗匠は、こりゃ恐らく1DKの住んでも変らないんだろうな、この人は。とういうふうなところが、厳しさがありましたですねぇ。本当に、どんなになっても、きっとこの雰囲気を変えないような内面を作られていったんだと思うんですね。で、片一方ではやはり浅野家というのが厳然と宗匠にはありまして、今から一寸その話をさせていただくんですが、あのぅ、ちょっと次を見て下さい。


「写真 浅野長勲公1」
 これは浅野長勲、まあ昔は従一位(じゅいちい)様って、皆さん言ってらしゃいましたが、浅野長勲公(あさのちょうくんこう)、これは厳島の時にもうこれ、何十人も家臣が、旧家臣が未だ付いているわけでありますけれども、これが祖父の宗翁(そうおう)、私の祖父でありますけれども先々代であります。まだ若かった頃ですねぇ。で、皆重臣方が側に付いて、そういう時代であります。で、次をちょっとご覧下さい。


「写真 浅野長勲公2」
 これは長勲が、当時は長勲公とおっしゃってたんでしょうが、宮中に許されて杖をつかれていたような、しかし、90才、この90代の雰囲気でもこの迫力ですから凄いですねぇ。側に居たら萎縮するんでしょうね、僕達だったらきっと、これは。写真からもこれだけの迫力ですから90代にして奥に凄いものが感じられますですよね。で、実はこの方の姪御が、長勲公の弟の娘が、えー、先ほどの宗雄(むねお)私の祖父の奥さんでした。松枝といって、鳳家といいまして、やはり浅野家の、鳳と言いましてやはりそういう家の家筋でしたけれども、その娘、長勲公にとっては姪御だったもんですから、しかも長勲公の命で、ご本人は外交官と結婚したいと、英語もべらべらそうですが、東京から広島ということで、昔のことですからですねぇ、松枝という私の祖母が長勲公の命で広島に来られました。で、長勲は凄く松枝を可愛がっていらしゃったもんで、自分にお子さんがなかったもんですからですねぇ、度々今の和風、山水、今の我が家の家に来られました。昭和十何年もお元気で、あの和風、今の建物は十年位にできたもんですから、今の山水軒、今の書院の二階が長勲公のお成りの部屋であったみたいでありまして、あのぅ、父が笑っていましたけれども、家元が笑っていましたけれどもねぇ、長勲の時代まで未だ膝行・膝退(しっこう・しったい)だったんだそうですよ。昭和十何年でも。普段しないでしょう、何度も転がりそうになって、普段しなかったら膳を持って転がりそうになって、はははは、膳を持って難しいですからねぇ、転がりそうになると長勲公に冷やかされたそうですけども、本当に膝行・膝退は難しい、特に膝退は難しい、長く歩くのは難しいですからね、そういうのが未だ30になるか、ならないかの頃のそういうような生活ですからやはりそういうものはしっかり中にあったようであります。で、ちょっと次をやって見て下さい。


「写真 清風館前で」
 これは縮景園が出来た時の、今日も山田さんお越しですが、縮景園の清風館の開館の時、昭和42年だったでしょうか、お孫さんの長武、まぁ当時は東博の館長でした、東京の東博の館長していらしゃいました、まだみなさん御殿、御前、御前とおっしゃってましたが、浅野長勲公、家の方では御前とか長勲公(ながことこう)と未だ言った時代であります。で、先代も大変若い時代です。で、しかし、この方も大変心あったんですが、眼光鋭くて、私、高校二年の時に始めて御点前をしたしたこの東博の館長をしていらっしゃった浅野様の前で御点前をしましたが、その小さい中に物静かなんだけど、奥にある眼光の鋭さにやっぱり萎縮しましたですねぇ。あの、威張っているんじゃないんですよ。静かに座って居るんだけど奥にあるその凄さみたいなものが何だろうかという、今でも非常に印象の中にありますけれども、我が家の安閑亭でも御点前をしたことを記憶していますけれどもですねぇ、やはり時代がこういう人を育てていったんでしょうねぇ、で、その、次をちょっとお願い致します。


「写真 神事」
 あのぅ、先代宗匠は昭和、明治になった時に、国家神道になったときにいわゆる一万石以上の人達、華族のなった人達はみんな国家命令で神道になりました。神仏分離ですよね。もともと神仏は一緒で我が家も、祖霊社もあるし禅の仏間もあるというふうな、そういう、殆どの家がみんなそうだったですよねぇ。今もそういう家が多いと思いますけれども、で、そういう状況のなかで昭和、明治になった時に浅野さんは東京に、国家、国の命令で移られました。で、福山の安達様も移られました。で、浅野家の分家である三原に浅野達もついて行かれましたけども、広島で、いわゆる万石以上の家で我が家だけ残ったんですねぇ、結局。我が家、我々は選択権があった。あの時国家命令で移っていたら我々は恐らく流儀も無くなっていたと思いますけれども、それが幸いしたんだと思いますですねぇ。そのあと、浅野さんの方からに饒津神社を託されます。浅野家の神社、あそこは浅野家を祭る神社ですから、私の祖父も私のひいおじいちゃんも祖父、先ほどの宗雄も、ひいおじいちゃんというのは安靖(やすきよ)ですけども、安靖も十三代も十四代の宗雄も十五代の宗源宗匠も殆ど宮司をしました。で、勿論浅野家、いつもいつもじゃないんですよ、ただやはり基本的に三家老の一家がするというのが明治以後の決まりだったもんですから基本的には我が家がすることが多くありました。で、宗匠も亡くなる四年くらい前までされました。私が、体調がわるいもんですからとにかく辞めてくれといって辞めてもらったんですが、これは浅野長勲公が亡くなって五十年ですから、昭和17年に亡くなられたんですから、未だ十何年前の話なんですけれども、20年たっていないと思いますけども新庄(しんじょう)にある浅野家墓所の長勲公のお社、この右側に奥方の綱子姫(つなこひめ)、山内容堂(やまのうちようどう)のお嬢さん、土佐のね、容堂のお嬢さんの綱子姫の墓が一緒に並んでいますけれども、これが先代宗源宗匠であります。宗源宗匠が五十年祭の祭祀をされました。これは今の宮司の浅野の和同さん(かずともさん)、これは住吉神社の宮司さんだね、後は皆ご縁の浅野家の家臣の、旧家臣の人達なんですが、宗匠には片一方でこういうものがずーっとありました。で、家でもやはりお茶と同じようにこういう話をいつも聞かせておりました。ですから、そう言う分ではやはり宗匠にしてみればやはり、その、なんていうんでしょうか、やはり浅野家とか上田家とかそれとお茶と、だから茶だけではなかったですよね、やっぱり上田家と茶の家元というような感じで、そういうことを思いますとやはりあのぅ、とにかく、先代の長勲、先代の浅野様がいらしゃる間はとにかく、あのぅ、広島駅にお越し、帰られると、広島空港へ、元の、今の西空港ですが必ず今から、私が30代の前半位まではですね、必ず送り迎えがあったんですよね。で、先代が行けない時は、私が行ってたんです。空港にも迎えに参ってましたし、当時は広島市の職員も、関係の職員の方は、或いは県の方も来ておられました。未だ戦前が色濃く残って、県も市も残っていましたですよ。県、市も関係部署の方はお越しになっているし、私共のような関係者も来てる、で、広島駅、或いは空港にお迎えをし、お送りすると言う、今は勿論ありません。時代がやはりもう変ってきました。そういう部分では、そのぅ、やはり先代は、やはりそういう中が片一方にしっかりあったように思いますですねぇ。ですから、私も先ほども、あのぅ、和風堂も鎖の間をしっかり直しますが片一方の武家文化をしっかり伝えたいというふうに言ってますのは、やはり家の流れと言うものは大事にしないといけないものですので、やはりその、文化的なものについては、今はもう我々が伝えるのは文化ですからやはり茶だけではなくて武家催事のようなもの、城下町としての武家催事みたいなものが片一方ではどうしても押さえてゆかなければいけないなぁと思うもんですので、あのぅ、宗匠の生き方を見ながらもそう言うことを思います。


「写真 宗篁様号披露式」
 

 電気を、じゃぁ、点けて下さい。
で、振り返って見ますと、やはり、宗箇もそうなんですよね。、やはり武将であり、茶人だったんです。武将茶人っていうと普通、お茶の人は武将が茶を一生懸命することを思うんですが、やっぱり、宗箇は、今日も多田会長から良いお話を、本当に良いお話を山田さんからもいただきましたし、多田さんからも本当に、平岡さんからも本当に良いお話をいただいて、私、感激をしたんですけれども、その、多田さん、おしゃっていましたが、やはり宗箇は武将が一生懸命茶をしたというんじゃないんですよね、武将であり茶人だったんですよね。宗源宗匠もどうもそう言うところを凄く感じます。やはりそれは家の風なんですから、私の場合、時代がまた違って、当然違って今とは全然違うんですが、しかし、その、宗箇のした、或いは宗源宗匠のやられた、消火された、宗源宗匠がされた武将であり茶人であると言うことが、今の代、私はじゃぁどうできるのかということなんだろうなぁと思っております。

で、津本陽さんがですねぇ、宗箇のことを風流武辺ということで何年か前に週刊朝日に1年間連載され、随分話題になって、たくさん本が売れました。あとがきの一番最後にですねぇ、津本陽さんがこう言う事を書いていらしゃるんです。ちょっと、それを読んで見ますけれども、「上田宗箇は戦国を生き抜いた武将の諦念(ていねん)、諦念ってのはどういうことなんでしょうか、諦めとか観念とか見切るとかそういう意味なんでしょうかねぇ、諦念が滲み出ているような生涯であった。」と、実は、私、宗匠をずっと見ていますとどうも先ほどの不動心とおっしゃってる中村先生の話と、僕が、宗源宗匠は非常に厳しい部分があって、いざ、ここまではぼくらも近寄れなかった部分がありましたけれども、1畳の、恐らく1DKの、本当に全てなくなって1DKになってもきっと変らなかったろうなぁと思うのは、やはり、ここの部分なんじゃないでしょうかねぇ、だから、津本さんがいう諦念、あるいは中村先生がいう不動心のようなものがやはり宗匠の中に、それが入り、やはり宗箇の人生を自分なりの激変のなかで見られて、自分としての、その、まぁ諦念っていうんですから、諦念っていうんでしょうか、不動心というものを作られていったんではないかと思うし、皆さんから見るとただただ暖かい深い優しい人だったと思われますけれども、側にいるものから見ると、非常に厳しいところがありました。世の栄枯盛衰と自分は一線を期していらしゃったのがひしひしと感じましたので、その分、やはり凄いところでもあるなぁというふうに感じておりました。ただそれを二代も三代もすると家は無くなるもんですので、そこが難しいなぁと感じながら30代、40代と過ごしましたけど、しかし、奥にあるものには凄く惹かれると言うのが、今も、自分自身もそう言う風に思っております。十一月の十三・十四日の宗匠を忍ぶ茶会では、私自身も担当しますし、会も担当しますけれども、宗匠のその人生が滲み出るような茶会ができればなぁと、恐らく私も宗源宗匠を真正面に向き合う茶会はこれが最初で最後であろうというふうに思います。後は五十年祭ですからねぇ、私自身も生きていない訳でありますから、そう言う点では真正面に見定めて、真正面に見据えて宗源宗匠の茶が皆さんに感じていただければなぁというふうに思って、今から本当に一生懸命準備して行こうというふうに思っております。

 えー、少しオーバーしましたけれどもこれで終ります。ありがとうございます。